朝から働く子どもたちーカンボジアー
みなさんこんにちは。
初めまして。中村ひなたです。
この度、発展途上国を訪れてみたいと思い、5日間カンボジアに行ってきました。
初めての途上国で一番感じてきたかったこと、それは現地の人のリアルな生活でした。
途上国の現状ってどんなだろう、それを感じて、知ってこられたらいいな、
そんな風に思ってこの旅にのぞみました。
でも結論、期待していたものは全然感じてこられなかった。全くわからなかった。
「リアルな生活を感じる」、「知る」
これってきっと自分も彼らも同じ位置に立てないとだめだと思う。
でも、自分たちが彼らの気持ちになるとか、そういうことだけじゃなくて。
きっと、同じ位置に立つことって、私たちだけが当事者の立場に立つことだけじゃなくて、
彼らにも私たちを分かってもらうことができてこそだと思う。
相手にも自分のことを知ってもらい、理解してもらわないと、私たちはいつまで経っても彼らと同じ場所に立てない。立たせてくれない。
自分たちだけの一方的な想いだけじゃなく、現地の人たちにも、理解をしてもらって初めて、一緒に歩む、面と向かって向き合うことができる。
結局、私たちだけが想いを持ってもーーー。
「あなたはあなた、私は私。」
今回、私が現地で感じたのは圧倒的な部外者感。
彼らから見たら自分はただ観光に来ている裕福な日本人で、なんだかこう、別の世界で生きているような気がした。
「あなたはあなた、私は私。」
そんな感じ。
今回の旅で現地のリアルな生活は感じることはできなかったけれど、
そこで思った様々なことをお伝えできたらなと思います。
―朝から働く子供たち in カンボジア―
一日目の早朝、世界遺産であるアンコールワットの朝日鑑賞に向かった。
眠いなーと思いながら世界遺産から見る日の出にわくわくしながら車で20分。
チケットを買って、観光客の列に一体となりながら遺跡に向かった。
日本の上智大学の支援で建設しているという石造りの立派な橋を横目に、お堀に浮かぶ仮設の橋を渡り、少しするとアンコールワットの三角帽子がみえてきた。
昇り始めた赤いオレンジの朝日を背景にたたえ、荘厳に構える大昔の遺跡。
でも、実際にアンコールワットの目の前に立ってみて私の目を最初に奪ったのは、
無気力に小さなかごを首から提げてお土産を売る子どもたちだった。
最初は祝日だからお手伝いかなーなんて思っていたけど、違う。
それは彼らの立派な仕事だった。
写真をとるのに夢中の観光客に近づいて行っては、
「マグネット ワンダラー(1ドル) ワンダラー(1ドル)」
と繰り返す。少し目を合わせてくれた客には商品を見せながらしつこく交渉する。
おそらく小さい子で7歳ぐらいだろうか。
そんな光景が当たり前にあることに驚いた。
でも何だろう。
そこで私が感じたのは「かわいそう」とか「助けてあげたい」とかじゃなく、
これがここでの「当たり前」という感覚。
その感覚が衝撃的だった。
私も例外ではなく彼らに話しかけられる。
日本人観光客も多いため、日本語で
「5枚 いちダラー(1ドル)、 5枚 いちダラー(1ドル)」
と、言い慣れたように寄ってくる。
「あぁ、私はこの子たちにとって、日本からやってくる違う世界の人々で、商売の相手でしかないんだな」
むしろ、それ以外の何ものでもないということを感じた。
それがなんだかもどかしい。
こう、胸に小さな、冷たい悲しさのような、さみしさのような……そんなものを感じた。
でも正直、私はその子たちにどう接していいか分からなかった。
ほかの観光客と同じように少し冷たい目線で首を横に振り、その場、その子をやり過ごす。
朝日が昇りはじめ、楽しそうに写真を撮る観光客を見ながら、
「あぁ、今の自分ってそれしかできないんだ…」
そんなことを考えた。
(文/ひなた)