『今、知っておくべき偉人。理不尽な税から人々を救った、宮古島の英雄』
■『今、知っておくべき偉人。理不尽な税から人々を救った、宮古島の英雄』
皆さんお久しぶりです。
ひなたです!!
中村十作(なかむらじゅうさく)
突然ですが、皆さんこの方の名前を聞いたことがありますか?
はい…ないですよね(笑)
簡潔に言いますと、
新潟県出身の偉人で、明治時代に沖縄県宮古島における人頭税を廃止に導いた人です。
彼が生きた時代は、今までの幕府による統治が終わり、明治維新がおこり、自由や人権が叫ばれ始めた時期でした。
今回は普段の取材シリーズとは少しテーマを変え、この偉人についてお伝えしようと思います。
でもその前に、なぜ私が今回この取材をするに至ったのか。
その経緯を少しだけお話します。
中村十作さんは新潟県の稲増村(現・上越市板倉区稲増)で生まれ育った方です。
この稲増村、実は私の祖父母の家があるところ。
そこには、地域の偉人の功績を称えようと“中村十作記念館”なるものがあります。
よく小学校の地域学習とかで訪れるような、いわゆる地域の偉人の資料館ですね。
なんと、そこの館長をボランティアでずっとやっているのが私の祖父!
いやいや、今まで当たり前すぎて何も興味とか関心とか持っていなかったけど、
よく考えたらおじいちゃんすごいことやってるじゃん!!
ふと、そう思い、このお正月に帰省したタイミングでちゃんとお話を聞いてきました。
それではここからが本題、中村十作さんについてです。
冒頭にもありましたが、彼は宮古島で200年以上続いていた悪税、
『人頭税』(じんとうぜい/にんとうぜい)を廃止に導いた人です。
ではそもそも、人頭税とはどんなものなのでしょうか?
人頭税とは
人頭税とは、その名の通り、人の頭数によってかけられた税です。
所得や納税力には関係なく、役人や士族を除く15歳から50歳の男女全員にかけられました。
※これは人頭税石といい、この高さを超えた者は全員税をかけられたそうです。
当時は貨幣ではなく、男は粟、女は宮古島上布(織物)を納めることになっていました。
これが悪税と呼ばれた理由は、その理不尽な税の使われ方と税率の高さにあります。
この税は、国税とは全く別に島の役人らに納められるためだけに作られました。
当時は厳しい階級社会だったため、
納められた粟や絹はもっぱら役人や士族などの支配階級のために使われ、
納める側の農民には利益がかえってくることはありませんでした。
その税の負担は、最高で収穫高の約65%にも上っていました。
どうしてこんなにも高くなったのかというと、それはこの税の仕組みにあります。
先ほども述べた通り、税は支配階級に納められ、彼らはその税をもって生活をしています。
当時の役人らは、家事の全てを任せる『名子』(なご)という奴隷を養っていました。
名子は人頭税の対象ではありませんでしたが、その代わりに役人の生活を支え、仕えていました。
役人は自分に仕える者がいなくなったら困りますから、名子を養うためにも税率を上げました。
ひとりの役人に対して10人の名子がいることもめずらしくなかったそうです。
役人が名子を増やせば増やすほど、税率はあがっていきました。
役人の生活費であるこの税は、決められた量は必ず納められなければなりません。
ゆえに、納められない人がいるとその分の税の負担は他の人に回ります
ある村に住むAさんが10納めなければならない税を、病気のため農作を行えず、
5しか納められなかった場合、Aさんの未納分は同じ村に住むBさんにかけられました。
この負のループが繰り返された結果、収穫高の約65%という税率の高さになってしまったのです。
農民たちの苦しみ
農民たちはこの税に大変苦しみました。
納税力に関係なく頭数によって税を課されるため、
一家が所有している農地から収穫できる農作物は限られているにもかかわらず、
その家の課税対象の人はみんな、ひとつの土地に対しての収穫量65%を納めなければならない
といった事態が起こりました。
物理的に収めることが不可能であるのにもかかわらず、
納められない人は集団で罰を受けたり、牢屋に入れられ拷問を受けたりしました。
こうした苦しみに耐えられなくなった農民は、
頭数を減らすために自殺をしたり、やむを得ず子どもを捨てる『まびき』を行ったりしたと伝えられています。
目隠しをして子どもを崖に連れていき、一緒に海に飛び込む、または、突き落したそうです。
また、当時、身体障害者は税率が低かったため、
自ら手足を切り落として税の負担を軽くしようとした人も少なくなかったと言われています。
宮古島の現人神
当時、真珠養殖の研究をしていた中村十作は、その研究のために宮古島を訪れました。
すると、そこで目にしたのは悪税に苦しむ宮古島の人々。
時に、自分の子どもをまびいたり、自殺をしたりしなければならないほど
苦しめられる農民の状況に深く憤りを感じた十作は、島に来てわずか1か月後、
島の農業技師である人物とともに人頭税廃止運動の先頭に立ちました。
始めは沖縄県に廃止を求めたものの、県の役人と島の支配階級との結びつきの強さから事態は好転しませんでした。
そこで活動を始めてから約1年後、同郷で新聞記者の増田儀一の手を借り人頭税の非社会性を訴え、
彼の訴えは財政界を動かし、請願からたった2年後、人頭税の廃止が決定されました。
その後、宮古島において完全にその税が廃止されるまでには8年かかりましたが、
彼の強い意志と行動によって島の人々は救われたのでした。
この功績はいまも称えられ、宮古島では神として祀られています。
※宮古島で神として祀られている場所
取材した感想
こんなにも強い意志と行動で、不条理に苦しむ宮古島の人々を救った人物が故郷にいたと思うと、なんとも誇らしいです。
歴史の学習で両地域の中学生による交流ホームステイが行われていたり、
町のイベントに合わせて両地域の代表が訪問し合ったりと、友好関係が続いているそうです。
たったひとりの行動によって、その時代の人々が救われただけではなく、
後世にも地域同士のつながりと平和を残している。
これってとても素敵ですよね。
『自分が見た不条理に目を背けず、本気で立ち向かい、未来に平和を残す。』
そんな人物になれたらいいなぁ。
(文/ひなた)