自分は危機に気づけるか~大学1年生が感じる、震災語り部ガイドさんのお話を聞いて~
どうも!大槌プロジェクトのメンバーの勝俣早紀です!
今回は震災語り部の赤崎いくやさんに、団体としては2度目のガイドをお願いしました。
(前回の記事はこちら↓)
http://themoment.bambina.jp/2018/06/29/shinnsainokioku/
私は、いくやさんに津波が来るときの緊迫した状況について語っていただきました。
「小学校時代の経験」
大地震が来た直後、いくやさんは津波が来るすぐにそう考えました。
それはいくやさんが小学生のとき経験したチリ地震の経験によるものだそうです。遠く離れたチリでの地震でしたが、日本の太平洋沿岸部では異様な光景が見られました。
潮がどんどんどんどん引いていく光景です。
それをなんと小学生だったいくやさんはわざわざ覗きにいったそうです。(※いけないですよ、そんなことしたら。)そしてだんだん、だんだん波が大きくなりながら町に向かってくることに気が付き、急いで海から離れて高いところに逃げたそうです。
幸い津波は床上浸水にとどまり、死傷者はいなかったと言います。
「1メートルでもいいから…」
大地震が起こったとき、いくやさんはそのときのことが瞬時に頭をよぎりました。
だから、急いで避難所に指定されている場所へと町の人々を誘導しました。特にいくやさんは体が不自由な方々の誘導に努めたそうです。
時間がかかりました。やっと避難所に着いたときにはみなさんへとへとでした。でもいくやさんはここにも津波が来る恐れがあると予測し、山のふもとだった避難所から出て、
「1メートルでもいいから山を登ろう」
とみなさんに勧めました。
しかし、みなさんほとんどの人がその場に留まろうとしました。また、多くの町民は大地震から来る津波を軽く考えていました。なぜなら大槌町は過去に何度か地震に伴う津波を経験したことがあったからです。
しかし不運にも東日本大震災のときの津波はそれらを大きく上回る大津波でした。
高齢の町民の多くは
「あのときはここまで来なかったから今回も大丈夫だろう」
と言って動こうとしませんでした。結果的にそこでの別れが一生の別れとなってしまいました。
生死の分かれ目
「今回も大丈夫だろう」という油断が招いた死。
自分に危機が迫っているとき、意外とそれに自分自身が気付けていないということは誰にでもあると思います。それに気づけるかどうかが自分の生死を決める。そう考えます。
異変が起きたときに危機感を持つことが大事なのだと改めて気づけた今日でした。
(文/さき)
「復興」から「伝統」へ。~刺し子体験をした学生が思う継続されていく秘訣とは~
2019年3月23日
大槌町には、「復興」の新たな一ページが刻まれました。
三陸鉄道リアス線 開通!!
駅前では華々しくセレモニーが行われ、8年ぶりに町に列車の音が響きました。
お父さんの肩に肩車される子どもから、いよいよだと見守るお年寄りまで、みんなが旗を揚げ、手を振り列車を迎えました。
「輝き」
まさにこの言葉がぴったり似合う、希望の瞬間を目にしてきました。
こんにちは。大槌プロジェクトの中村ひなたです。
私自身、大槌に関わりはじめて1年、このタイミングに立ち会えたことにすごく感謝を感じています。
もう1年が経ったのかと思うと短かったような、でもずっと前から関わっていたような濃さがあるような、不思議な感覚がしています。
この1年、沢山の方にお世話になって来ましたが、最初から継続してお世話になっている大槌復興刺し子プロジェクトさま。
今回はついに、「刺し子体験」をさせて頂きました!
(その前に、大槌復興刺し子プロジェクトとは…?の方はこちら↓)
刺し子さんになる一歩、くるみボタンづくりを体験!
「こっちだよ~」
久々に訪れる刺し子プロジェクトさんの事務所玄関前でもじもじしていると、インターホン越しに明るい声が聞こえてきました。
こうして久々に訪れても快く受け入れてくださる皆さまが本当にありがたいです。
今回、初訪問のメンバーもいたのですが、あっという間に打ち解け、くるみボタンづくりがスタートです。
「私こっちの色かな~」
「この柄がいい!」
そんな会話を楽しみながら、生地と柄を選び、ひと針ひと針さしていきます。
今回刺し子をしたのは手のひらサイズ程の布。
スタッフの皆さんも一緒に普段のお仕事をしながら、合間合間にの体験です。
まるで本当に刺し子さんになったかのような気分で作業(^^♪
要領は波縫いと同じです。
今回は体験のため刺繍針を使いましたが、本来は刺し子針という少し太い針を使うのだそうです。
刺し子はもともと布を強くする技術だったということから、太い糸が使われることが多いのでこのようになっているのでしょうか。
最初は家庭科の時にやった感じだ~なんて余裕に思っていた私でしたが、柄を刺していくにつれてどこに次の糸を刺せばいいのか分からなくなる……
目の神経もすごく使うし、肩も固まってきます。。。(笑)
「常時シップが欠かせないのよ~」
そんな風に笑って話されるスタッフのみなさん。
刺し子さんはお仕事でもありながら趣味のように商品づくりを楽しまれているそうで、何枚も生地を自宅に持ち帰り、家事の合間や空き時間に数時間没頭される方もいらっしゃるそうです。
私たちが手のひら程の刺し子を完成させるのにかかったのは約1時間半!
商品には、小さな名刺入れなどから洋服のステッチまで、様々な種類があります。ひとつひとつにどれだけ手間暇かかっているのだろうと思うと、温もりを感じますね。
本当にひとつひとつの作業が手作業なのです。
糸を巻くところ、下書きを書くところ、柄をデザインするところ。
私がみた中で、機械での作業って、、、ありませんでした!!
それほど沢山の方の気持ちがこもった商品はやっぱり大切に使いたいと思うし、一生ものになるなと感じました。
大槌復興刺し子プロジェクトさんのこれから
震災から8年が経ち、復興とはが問われる時代。大槌復興刺し子プロジェクトさんは、今後はどのような展開をされるのかを問いました。
「名前から『復興』をとり、大槌刺し子プロジェクトとして活動をしていきたい」
発災時に避難所でもできる仕事と生きがいをとして始まった大槌復興刺し子プロジェクトさん。震災から時が経ち、その活動も変化が必要とされています。
昨年の秋には新たな刺し子さんの募集もかけたそうですが、すると20代の方からお母さん方世代まで地域の女性、約10名もの新たな刺し子さんが集まったそうです。
心の復興の一役を担っていたプロジェクトが、地域の女性の副業へ、また、新たな伝統へと紡がれつつあるのですね。
商品にはファンも多いそうで、他社企業さんとのコラボ企画も進められているそうです。
地域に愛され、ファンに愛される。
その連鎖ができているのが「復興」が問われる時代になった以降も続いていく秘訣なのではないでしょうか。
また訪問させてください!
祝日にも関わらず、あたたかくご対応して下さりありがとうございました(^^)
(今回つくったくるみボタン↑)
大槌復興刺し子プロジェクトさんの詳細はこちら↓
自転車屋さんとカフェの合体!?~大槌町で始まる新たなる挑戦~
こんにちは!
最近関東では桜が満開のところが増えて来ましたね(*^^*)
四季の中で春が一番好きなので、
この頃春のお花を見てはルンルンのさきです!
とはいっても、
お花見となるとついつい食べ物に目を輝かせてしまうような、花より団子派の私。
甘いものだ~い好きなので、今回の滞在中、大槌町でとあるカフェを営む内金崎さんに、お仕事の合間を縫って取材させていただきました!ご協力ありがとうございました!
そのお向かいに建つのが、自転車屋さんとカフェを組み合わせた、その名も「チャリカフェ」さんです。
去年の春開業したばかりです!
しかしなかなか珍しい組み合わせですよね(笑)
カフェの方は自転車色に染まっている??
と思いきや、そんなこともなく、誰でも入りやすいオシャレなカフェです。
メニューは彩りよくバランスが整った健康的な定食がそろっていて、女性うけする感じです。
私たちもこの間いただいたとき、見た目にも、味にもルンルンしながらいただいてました♪
店内にはキッズスペースも設けられていてママさんにも配慮されています!
そんな今どき風なカフェですが、もとは大正時代から代々つづく自転車屋さんでした。
なぜ「チャリカフェ」が生まれたのか
自転車屋さんだけでは、経営が苦しかったからだそうです。
あの日、多くの犠牲者を出した東日本大震災ーーー
それから人口減少が加速する大槌で生きていくためには、自転車だけではだめでした。
そこで出した答えがカフェ経営。
自転車屋さん4代目となる内金崎さんが、奥さまの作るケーキとお母さまの作る大福があればできると提案したそうです。
それだけ美味しさに自信がありました。
名物「御社地大福」
そんな風にして生まれたチャリカフェさん。
名物は「御社地大福」
御社地というのはそこの地名で、岩手県に2つしかない天満宮の1つがその地区にあったのだそうです。
甘さ控えめできめが細かく舌ざわり抜群なあんこと、それをたっぷり包むとろけるようにもちもちのお餅。
相性抜群です!!
本当に美味しい。
花より団子派の私も幸せです。
ツアーの参加者もおいしさのあまり、
しおりにこう書き込みました。
「大福うま。」
全てを物語っています。笑笑
忘れられない味
この大福、実はお母さまが子どものころ近所にあったお店の大福の味なんだそう。
その大福が大好きで何度も何度も通っていたそうです。
そういう忘れられない、やみつきになる味ってありますよね^^
そこでお母さま、自分でその味を再現してしまいました!!
すごい、、!
そう、チャリカフェ名物の大福の味は、お母さまの子どものころの思い出の詰まった味なのです。
しかしお母さまお手製の大福、そう簡単に商品登録することはできませんでした。
日持ち検査に合格したり、添加物を使わず、自然のものだけを使うようにしたり、、、
震災の影響でお店を建てたくても建てられない間、
試行錯誤を何度も重ねました。
そうして完成したのが私を含め皆さんを虜にしてしまう今の大福です。
実はこの大福、あんこから手作りされているのです。
自分の子どもの頃の思い出の味に似た、自分風の味を求め続けて、なんとあんこ作りに4~5時間かけていらっしゃいます。
いや~、愛がこもっている。
しかし、最近はありがたいことに注文も増えてきていて、
ほぼ毎日あんこ作りという大変な作業をなさっているそうです。
お母さまの体力的にも辛くなってきました。
そこでご決断なさったのが
クラウドファンディングで集めたお金であん練機を買う
ということ。
↓↓↓詳細はこちら↓↓↓
4~5時間のうち1時間半くらいはあんを手で練るらしく、相当体力を使う作業です。
しかしあん練機があれば体力も消耗せず、あんこの味も食感も変わることがないそう。
昔ながらの懐かしい味に、お母さまの愛情もあんこもたっぷり詰まった大福を食べて笑顔になる。
大槌の中心にある一つ屋根の下で、そんな笑顔の空間がこれからもずっと続いていきますように。
クラウドファンディングが達成されること心よりお祈りしております^^
(文/さき)
今日だけは、立ち止まっていたい。~大槌町に関わり1年、私が思うこと~
ーーー今日だけは、立ち止まっていたい。ーーー
3.11
震災から8年が経ちました。
あなたは今、誰と過ごしていますか。
大切な人は、そばにいますか。
今朝から、なんだか少し心の奥がそわそわしています。
SNSで流れる投稿。綴られるそれぞれの想い。
それらに触れては、胸がいっぱいになります。
あの人やこの人を思いだす。
何でかよくわからないけど、心がぎゅっとして、いろんな感情が渦巻く。
私は、震災被害にあった町、岩手県大槌町に関わり始めて、ちょうど1年になります。
去年の私はきらっとすがすがしく晴れた大槌町の空の下にいました。
http://themoment.bambina.jp/2018/03/12/あの日、小学生だったわたしが被災地で祈る。未/
あの日の祈りと、今日の祈り。
自分の中で違うものになっていることに気がつきます。
大槌町という町。
そこに生きている人々。
私自身、大切なものが、沢山増えました。
この1年で、「復興」という言葉と共に、未来を掴もうとしている人たちに沢山出会ってきました。
今まで知らなかった人の想いに触れ、いろんな現実を知り、かけがえのない今があることを実感できるようになりました。
私は、直接被災はしていない。
大切な人を失ったということもない。
だから、私が大切に想う人たちのこの日への想いと、私の気持ちなんて、全然重さが違うんだろうななんて思ったりもします。
でも、私にとって大切な人の特別な日は私にとってもやっぱり特別で。
私は去年から1年、「復興」にちゃんと向き合えてきたのだろうか。
よくも悪くも、私は「復興」ということをあまり意識していません。
私がみている大槌町は、「被災地」としてではないから。
ただ、あの町で出会う人、空気、新しく重ねられる思い出。
そんなもの全てが愛おしくて大切だから、大槌に関わっている。
でも、その町には震災という未だ癒えぬ生暖かい大きな傷があって。
「復興」というものが続いている。
私たちは、物事を一生懸命正当化しようとします。
傷を治すために、必死に未来を見ようとします。
あの日失われた命を無駄にしていないよって伝えるために、人々は「復興」への歩みを止めない。
8年前と比べて、確かに復興は進んでいる。大槌では今まで不通だった鉄道が通る。
なくなった家たちがだんだんと建ち始めている。
すごいよね。
すごい。
本当に、すごい。
人が未来を見る力、前に進む力。
そういうものに、この一年、すごく勇気づけられてきた。
生きるってすごいなって思わされてきた。
だから、私も前へ進もうって思えてきた。
だけどさ、今日だけは立ち止まりませんか。
今日だけは、丁寧に、あの日の事に想いを馳せていたい。
たくさんの輝かしい命が生きていたこと。
それが失われた事実があったこと。
たくさんの悲しみと苦しみと怒りと絶望と、言葉にならない感情があったこと。
それらに、私はちゃんと祈りを捧げたい。
むりにとりつくろわずに、未来を見すぎようとせずに、今日だけは、ちゃんと想って、ちゃんと受け止めたい。
誰かが言ってた。
「3月11日以外は、もうあんまり被災地には目を向けてくれないんだ。」 と。
誰かが言ってた。
「3月11日だけでも、1年に1度だけでも、思い出してくれることがありがたい。」 と。
どっちが正しいなんてない。
100人いれば、100人違う意見ある。
だけど、私は、今日はちゃんと立ち止まりたい。
祈りを捧げる日にしたい。どうしたら祈るっていうことになるのか分からないけど。
祈りに何の意味があるか分からないけど。
大切な人たちをもっと大切に思う日にしたい。
8年目の今日。
全ての命に感謝して。
2019.3.11
(文/ひなた)
大槌ホットラインとは⁉~大槌町の年越しに迫る~
昨年のお祭りでお神輿を担がせてもらって以来完全に大槌町がアナザースカイとなったじゅんです。
今回は大槌で年越しの体験をさせて頂きました。そこで感じた事をありのままお伝えしようと思います。
初めに
皆さんは毎年どのような年末年始を過ごされますか。家族や友人、恋人、親戚と時間を共にされる方が多いのでは無いのでしょうか。
私もそんな普通の年越しをする1人です。皆さんにも普段の年越しを頭の片隅に置きながら見ていただけたら幸いです。
餅つき体験
今回の滞在ではお世話になったご家庭で餅つきの体験をさせて頂きました。
餅つきを体験させて頂いて思ったのは、人の繋がりがお金では無く、信頼やモノにあるという事です。
その繋がりを"大槌ホットライン"と勝手に呼んでおります。
そう感じるにはどのような出来事があったのか紹介していきたいと思います。
そもそも大槌では震災以降餅つきを家でする家庭は減少の一途をたどっているとの事でした。つまり、大槌とは言え年末年始に餅つきをする事は一般的では無いのです。
世間一般でも餅つきをする家庭は少ないかもしれないですね。
僕も、餅つきの一部始終を見るのは僕は今回が初めてでした。餅つきはつくところが印象的ですが、それまでの準備がとても大変です。今回お世話になったご家庭では、一連の流れを体験させて頂きました。
沢山の餅米を研いだり、蒸したり、機械である程度形作ったりと作業が多くあります。作業も今回見るのが初めてだったので新鮮な光景でした。
庭で餅をつきだすと今回お世話になった方に関わりのある人がゾロゾロとやってきました。僕もその中の1人だったかもしれません。(笑)
気がついたら子どもから大人までたくさんの人がいました。いつのまにか大賑わいの餅つき大会です。
火の番をする人がいたり、ついたお餅の形作りをする人がいたり、誰が指示をするわけでもなくそれぞれが役割を果たしていて、素敵な空間がありました。
そして、10回以上も餅つきをしたので沢山のお餅ができました。今までに見たこともないお餅の量に感動していると、来ていた人たちはお餅をたくさん食べていました。僕もお腹が膨れる程お餅を頂きました。つきたてのお餅はよく伸びて本当に美味しいですね。
水きり餅という食べ方で頂きました。
水きり餅とは、つきたてのお餅を焼いたり煮たりせずに、きな粉や大根おろし、納豆を好みに合わせてお餅と一緒に食べ方です。
つきたてのお餅ならではの食べ方で貴重な体験でした。
今回の滞在を通して感じた事
今回の餅つきでは驚き尽くしでした。ただでさえ今の時代に一般家庭で餅をつくのは珍しい事だと思います。
来た人にお餅を渡したり、その後に知り合いの方にお餅を渡しに行ったりとあんなにあったお餅はあっという間に少なくなっていました。
家族で食べるというよりかは、人にあげる用だったのかと思いました。
お餅つきは楽しいけど、大変な作業も少なくありません。苦労してついたお餅を配るなんて、、、って内心思っていました。1番お世話になっているのは僕なんですけどね、、、、、。
でも、きっとここで配られたお餅は色んな形になってその方の元に戻ってくるんだろうと思いました。海の幸だったり、子ども達の笑顔だったり、何かの手伝いや助けだったり。
お金ではない温かさが経済を回していました。
この大槌ホットラインがとても魅力的に感じます。大槌の温かさに触れることによって、自分を見つめ直すキッカケになるんではないでしょうか。
最後に
年末年始の多忙な時期にも関わらず、貴重な体験をさせて頂きました。美味しいご飯を頂いたり、お家に泊めて頂いたり餅つき大会以外でも本当にお世話になりました。
僕にとっては一生忘れることのない素敵な年越しとなりました。この場を借りてお礼を申し上げます。
(文/じゅん)
あの日の記憶と共に町を巡る。私たちが震災を忘れてはいけない理由。
大槌を訪れるのは2回目。
ツアー企画担当のひなたです。
今回の大槌町取材、地元の方々にたくさん繋がりました。
ひとりの方とお話していると、どんどん人の輪が広がっていくんです。
「だったらooさんに会いにいけばいいよ〜」
「連絡してみるけ〜」
こんな風に。
私はそうして、あったかい人の輪に繋がれながら、たくさんの方とお話ししました。
そして、やっぱり思いました。
大槌に生きる人々の生き方は、美しい。
優しくて、
強くて、
あったかくて、
美しい。
大槌に生きる人々の想いを、紡ぎたい。
いや、紡がなければならない。
再びこの地を訪れてやはりこう思ってしまったので(笑)
私が今回出会った大槌の人々を私の感性のままにお伝えしようと思います。
震災語り部ガイドのいくやさん
ツアー2日目にお世話になったのが、赤崎いくやさんご夫婦。
大槌町で鍼灸師をやられながら震災の語り部ガイドをされています。
急遽お願いしたのにもかかわらず、わざわざ朝の9時から、私1人を案内してくださいました。ありがたいです。
あの日の記憶と共に町を巡る
まず向かったのが城山。
大槌町役場を上った先にある山です。
あの日、この山に登る坂道を駆け上り、多くの人が避難しました。
山の中腹には震災以降、犠牲者の冥福を祈って灯された「希望の灯り」が静かに揺れています。
今回は山頂まで連れて行ってもらいました。
心にすぅーっと染みるような新鮮な空気に包まれます。
町のお年寄りは日課で登るというこの山。
毎日登りたくなるのも納得です。
その頂上からは町を一望できます。
海側には新たに巨大な防波堤がたち、町の方では都会のマンションのような復興住宅や町営のできたばかりのお家が立ち並びます。
震災の時は、写真に映る橋のさらに奥の橋まで波が押し寄せたと言います。
津波が襲った後には、町は火の海に包まれました。
「煙がすごくてね。男たちは車に人を詰めるだけ詰めて上へあがって、山道を知っていた私は歩ける人をその道へ誘導したんだ」
こんなに上まで煙が立ち込めていたのか…
私には想像もつきませんでした。
山の麓にあったお寺は、火に飲み込まれ、現在も再建中でした。
(お寺の跡地。この右手ではお寺の再建が進む。)
お寺の工事が進む横にひっそりと置かれていた溶けた鐘が、その悲惨さを物語ります。
いくやさんは、この時の光景をたった二文字、
「地獄」
そう語りました。
「震災を風化させないってよく言うけど、経験した者にとっては一生風化しないね」
眉間にしわを寄せながら放たれたその言葉を前に、私は立ち尽くしてしまいました。
避難所生活と別れ
山の中腹には避難所となった体育館があるのですが、いくやさんは2011年の4月末まで約1か月半そこで暮らされていたそう。
その時の記憶をを心の奥の引き出しからそっと取り出すかのように、静かに語ってくれました。
「800人での共同生活。わめき声や泣き声がそこら中から聞こえてきて寝れたもんじゃなかった。私の場合はとなりのおじいちゃんのいびきがすごくて。でも、みんなお互い様で文句は言えないから。大人たちは駐車場にある車に『スナック』って段ボールで書いて、そこに集って、支援物資の中にあるお酒を飲みかわしてから寝ていたりしたね」
いくやさんの話の中でも特に私の心に残ったのがこの言葉。
「何回お別れしたんだかね~」
山を下り、町中を運転している時に不意に流れ出てきたこの言葉。
震災直後、800人いた避難所は、いくやさんが出るころには300人になっていたと言います。
「みんな、『どこに当たったの?』って会話をするんだ。仮設住宅に入れるかどうかは抽選で『当たった』って言葉を使うんだよね。お互い様だから『おめでとう』って言って送り合うんだけど、やっぱり寂しかったよね…」
この町の人たちは、どれほどの別れと、悲しみを乗り越えて7年間歩んできたんだろう。。。
ふとそんなことを思うと、自分がちっぽけすぎて胸が締め付けられました。
最後に
最後には、いくやさんの自宅に招いて頂きました。
昨年の9月に自立再建をして引越してきたばかりだというお宅。
木のいい匂いに包まれて、奥さんが温かく迎えてくれました。
お裁縫がお得意だといい、こんなに小さなサルぼぼをひと針ひと針丁寧に縫われていました。仮設住宅に暮らしていた頃は、ご近所さんと集まり、支援物資の下着や切れ端などを使い、ひな人形を作っていたそうです。
「今年の3月には今まで作った作品を並べ、仮設にいたころの仲間を自宅に招いて、みんなでひな祭りを祝ったんだよ~」
と楽しそうに話してくれました。
最後に、いくやさんに率直な疑問をぶつけてみました。
「なんで震災の語り部ガイドをやられているんですか」
「それはね、大変な経験をしたからだよ。私は最年長ガイドなんだけど、語り部のガイドが募集される時に真っ先に手を挙げた。うしろを振り返っても何も返ってこない。残った命が大事なんだ。どう生きるか、どういう風にいきるかなんだよ。自分でできる範囲で支援してくれる人たちに恩返しをしないとね」
「若者に伝えたいことはなんですか」
「”夢は大きく、実現は小さく”
逆を言う人もいうけど、やっぱり夢は大きく持たなくちゃだめ。それを実現するための努力を積み重ねていくことが大事なんだよ。それが身の回りの小さいところから実現していけばいいじゃないか」
当たり前に気がつく時。
震災を経験したものにとっては震災は一生風化しないーーー。
そんな当たり前のことに、私はまた気づかされました。
そう。風化なんてしないんだよね。
だからこそ震災を経験していない私たちは、彼らの想いを忘れてしまってはいけない。
苦しい過去であろうとも、知らなければならない。
生かされている命に感謝して、私はこの記事を綴ります。
(文/ひなた)
「人として、本物の椎茸を作りたい。」 ~唯一大槌の山奥で本物の椎茸を作り続ける、兼澤さんの下を訪ねる~
冬のお鍋にはいうまでもなく、1年中を通して愛されるきのこ、椎茸。
小さい頃、椎茸の食感がどうしても苦手で欠片ですら口に入れられなかったが、いつの日 からかそんな苦手もなくなり、筑前煮などに入っていると喜んで真っ先にはしを伸ばす。
しかしそのようにして1年中私たちがスーパーで手に入れる椎茸は、菌床栽培で人工的に育てられたものがほとんどだ。
菌床栽培というのは、おが屑を使って作られた培地に、人工的に肥料を与えて1度にたく さんの椎茸を取れるようにできた栽培法のこと。
最初に言っておきたいのだが、この記事は決して菌床栽培を非難するものではない。
菌床栽培は人々が食べたいときにいつでも椎茸を食べられるようにするためにあるもので、 私たちの食を支えてくれる重要な役割を果たしてくれている。
ただ岩手県大槌の山奥の金沢という、かつては原木を使った椎茸栽培が盛んだった地にお いて今も原木椎茸の栽培を続ける若い農家さんがあると耳にした為、 気になってその地を訪ねてきた。
原木椎茸の作り方を知る
雪も残り冷たい風が辺りをつつまれていく中、古民家から一人の若い男性が笑顔で迎えてくれた。
この方が、金沢に残る数少ない原木椎茸の農家さんの一人、兼澤悟(かねさわさとし)さん。
冷たい風の中、早足でビニルハウスに案内されるままについていくと、ビニルハウスの中 は外よりも暖かく、そこに直径10センチほどの原木がずらっと並べられていた。
(↑ずらっと並べられた原木。所々穴から小さな椎茸が顔を覗かせている姿が愛らしい。 )
よく見てみるとそれぞれの木肌中 にたくさんの穴が空いていて、それぞれの穴の中になにやら白いものがみっちりと詰め込まれていた。そのため木は焦げ茶色い木肌に白い水玉模様が。
「それは椎茸の菌だよ。自分たちでドリルでコナラの木に穴をあけて、その中に手作業で 菌を詰めていくんだ」
白い水玉模様になった木を不思議に思って見つめていると、兼澤さんがそう教えてくれた。他の木には、所々小さな椎茸の赤ちゃんがポコポコと顔を出していて、何だかちょっとかわいい…
原木椎茸の栽培は、菌を入れてもすぐには椎茸は生えない。
まず1年かけて菌に木を食べさせ、原木に菌を蔓延させ、キノコがちゃんと生えることができるように準備をしてあげる。
菌を植え付ける季節としては、もし外の環境で栽培するとしたら椎茸は春と秋の年に2回が収穫時期になるのだけれど、それに合わせて春に菌が生えるものは、その前の年の1~2月に菌を植え付ける。
キノコが生える仕組みとしては、植えられた椎茸の菌が暖かい時期、梅雨の時期、寒い時期、そしてまた暖かい季節を通して感じとってからやっと『菌はまた春がきたなあ、そろ そろ生える時期だぞ…!』となり、原木から椎茸がポコポコと生える。
兼澤さんのところの原木椎茸は、最初は1年をかけ原木に1度菌を蔓延させた後、ハウス や水槽を使うことで年中を通して変化する気温、湿度を全て再現し、40~60日のごと に繰り返し収穫をすることができる。
具体的には、ビニルハウスで気温の変化の調節をしてまずは1度椎茸を収穫した後の原木にしっかりと菌が蔓延できるようにする。その次に原木を水に入った水槽に24時間沈める事で、梅雨の湿った時期だと思わせる。そして今度は秋の環境を作り出すために15℃の環境を作り、そろそろ菌ができる時期になることを知らせる。そうしたらまた20℃くらいの環境を作り出し、『春』を作り出す、といった管理をするのだそう。。 。
「特にこの金沢の地域は、日照時間が長いから、昼間はビニルハウスの中もポカポカ温かくなりやすいんだよ。ここで原木椎茸の栽培をするのには、ちゃんと理由があるんだ。」
兼澤さんが笑顔でそう教えてくれた。
ハウスの中には2000本ほどの原木があり、それぞれに同じようにたくさんの穴が空いている。 聞くと、原木の太さでその開ける穴の数も違うようだった。
触ってごらん、と言われるがままに白い菌の部分を触ってみると、発泡スチロールに似て、 少し弾力がある。きのこの菌って触るどころか初めて見たけど、こんな感じなんだなあ。
こんなにたくさんの穴を、しかもこんなにたくさんの木にあけていくなんて。。。
それを手作業でやっていくのだから、、、きっと大変に違いない。
「そう、これは骨の折れる仕事なんだ。だからお年寄りの農家さんではなかなかやっていけない。 昔は金沢にもたくさんの原木椎茸の農家さんがいたけれど、高齢化の問題もあって、このように大変な作業の体力的な限界からどんどん減っていってしまったんだ。」
震災後、次々と立ちはだかる問題
高齢化の問題だけではない。
木を使う原木椎茸の栽培と林業は、大きく関わってくる。
「今では農業人口だけでなく、林業をする人も減ってきてしまってね。
かつては原木椎茸の農家さんが林業もしていて、自分で木を選んで切ったものを使っていたんだ。自分も、父が亡くなる前は自分たちで地域の原木を切りに行っていたんだ。
でも、父が亡くなったことに加え、木を切っている1~2ヶ月は他のことをできず収入が入ってこないから、いい原木が取れるとしても自分たちが林業までするのは経営面でなかなか厳しくて。今は、自分は山に入らないで木は購入したものを使ってる。
ただ、この原木は地元のものなのだけど、他の原木椎茸農家さんは福島が産地の原木をよく使っていて。その方達は震災後に原発事故の問題で林業の人も自由に木を切ることができなくなて、太くて良い原木が手に入りづらくなってしまったんだ。
原木も使い続ければ体力が無くなってくたびれてしまうから、少しの間使わずに休ませてあげる。そうやって繰り返し使えるけど、やっぱり限界はあるからね。他の原木農家さん もきっと大変だと思う。
こうやって、高齢化や原発事故の問題も重なって、とても厳しい状況にある。でも僕のところが原木椎茸の栽培をやめてしまえば、更に金沢から椎茸の原木栽培はなくなっていってしまう。」
兼澤さんが少し悲しそうに言った。
それでも続ける理由
でも、兼澤さんは、どうしてそこまでして原木椎茸の栽培を続けようと思うのだろう?
そう尋ねると、
「今の日本の椎茸の9割程が、ブロックにしたおがくずを土台に使った菌床椎茸で、おがくずだけでは栄養が足りないから、そこに栄養剤や人口的な肥料が使うんだ。
原木椎茸は昔ながらの製法で、木の栄養だけで育つけど、そうやって僕らは自然に近い状態で育った『本物の椎茸』を食べたてもらいたいし、 人としてそういうものを作って残していきたい。
人間は本来、そういったものを食べてきたからね。
人は食べるものが変わると性格も変わる。
ジュースをあげてみるとわかるけれど、あれは何からできている?食品ではなく、人工物 だよね。天然のものを食べるのか、人工物を食べるのか。僕らは口に入るものとして、自然のものを食べて欲しいんだ。」
でも、と兼沢さんは続けた。
「菌床椎茸も少し人工物に近いけれど、悪いわけでない。菌床椎茸のおかげで、しいたけを食べたいときにすぐにスーパーなどで簡単に手に入れることができる。食べたいときに食べられないって、1番悲しいでしょう?そのための菌床栽培なんだ。」
どっちがいいというものはない。
原木栽培には原木栽培の、菌床椎茸には菌床椎茸の役割がある。 菌床栽培があるから、椎茸を食べたいっていう人に、いつでも椎茸が届く。 そして、原木椎茸には原木椎茸の役割がちゃんとある。
ちゃんとしたものを食べたい、本物を食べたい。そんな人たちに届けたい。
その一心で、 兼澤さんは原木椎茸を作り続ける。
兼澤さんは、原木椎茸を大切にしながらも、むやみに菌床栽培を否定したりはしない。それぞれの食べ物にそれぞれの役割があるという考え方は、作物の遺伝子組換えや、農薬にも通じることが言えるのでは無いかと思った。
ちゃんとそれぞれ、役割があって農薬が生まれたし、遺伝子組み換えがある。
「そこにそれがある意味」はちゃんとあって、兼沢さんはそこもちゃんと理解されている方だった。
兼澤さんはその上で、ちゃんとしたものを食べたい、本物を食べたい。そんな人たちに届けたいというその一心で、今日も大槌の山奥で原木椎茸を作り続けている。
(↑原木を愛おしげに見つめながら椎茸について語る兼澤さん )
(↑シイタケの原木を、水槽に沈め、梅雨が来たことを錯覚させる。 雪が積もって、原木を見ているだけでもとても寒そうだ。 )
兼澤さんの椎茸に関してはこちら↓
(文/すわ)