「奇跡」か「悲劇」か。一本松を取材して、僕が感じた間違いがないという矛盾の話。

こんにちは!

Pass onで行なっている、東日本大震災復興取材も今日で3日目ということで、

今日は大槌町から陸前高田まで移動して、「奇跡の一本松」と呼ばれている木を見に行きました。

 

 

2011年3月11日。

 

約7万本の松の木が生えていた林を襲った大津波はほとんど全ての木を飲み込み、流し去りました。

 

たった、一本だけを残して。

 

津波を耐え、

奇跡的に一本残った松の木を人々は「奇跡だ」と賛美し、

「奇跡の一本松」と名付けて復興のシンボルとしました。

 

 

その後、一本松は津波による海水の影響で枯死しましたが「震災の存在が風化しないように」という考えで、

たくさんの人の支援によって地盤を固めて、人工的に保護される工事が施されました。

 

 

一度死んだ一本松は、人間の技術のおかげで「復興を象徴するモニュメント」として生まれ変わったのです。

 

 

人々は観光地としての一本松を訪れます。

一本松の前で記念撮影をします。

 

 

 

実際に僕は今日、ピースサインをして写真を撮っている人をこの目で見ました。

 

 

 

正直、心が痛かった。

 

 

「奇跡の一本松駅」という駅があること、

「奇跡の一本松せんべえ」といったお土産が売られていること、

英語での案内が書かれていたことなど、

 

 

一本松が、観光地化していることがどうしても引っかかる。

 

一本松の周りの建物などは、2011年の当時のまま残っているものもある。

 

 

それすらも、「観光」の対象なのだろうか。

 

 

震災を風化させないためのモニュメントして、存在意義のある一本松。

 

震災の忌々しい記憶を呼び起こす装置として機能する一本松。

 

観光資源として、陸前高田の経済に貢献する一本松。

 

 

どれも、一本松の正しい姿であり、

矛盾しているようですが間違いはありません。

 

どれも間違っていないと思うんです。

 

皆さんは、

 

この一本松、必要だと思いますか?

 

僕の意見

 

約7万本の仲間たちを失い、たった一本残された彼は、「奇跡」なんかじゃない。

 

もう死んでいるのに、人間によって「奇跡」にされて、見世物になっている彼は、

 

「奇跡」ではなく「悲劇」ではないだろうか。

 

足元をアスファルトで固められ、

頭上には避雷針を、刺されて。

 

 

数十メートル横には、根っこだけの松の木。

 

 

 

「なんで、   なんで、   ぼくだけ。」

 

そんな声が聞こえてきそうだった。

 

植物に感情があるのかはわからないけれど、

 

僕は思った。

 

一本松が、可哀想だ。

 

復興途中にある景色の中でたたずむ、

綺麗に整備された地面に埋め込まれた松の木。

 

その不自然さが、心に引っかかる。

 

この気持ちはなんだろう。

(文/広大)