「目の前に広がる、矛盾にも近い現実」東日本入国管理センターに行って来た。

前回の記事では、外国人の受け入れと収容の問題について考えました。

今回は、実際に私が、東日本入国管理センターを訪れ、

収容者の方と面会して感じたことについて書いていこうと思います。

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東京から電車に揺られること約1時間半。

牛久駅に到着すると、さらにそこからバスで30分。

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朝の澄んだ空気が気持ちいい、そんな田舎に入国管理センターはありました。

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施設に近づくにつれ、現実を見ることに対する不安のような、緊張のような、

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もやもやとした気持ちを感じながら足を進めました。

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バス停から少し歩いて見えてきたのは、「冷徹さ」さえ感じる東日本入国管理センター。

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施設内は撮影不可。なんとも言えない重い雰囲気を感じながら、面会受付に向かいました。

 

私たちが訪れたのは午前中の早い時間だったこともあり、面会申し込み者は少なく、スムーズに面会手続きができました。

 

ちなみに、品川にある東京入国管理局を訪れたことのあるメンバーによると、

品川は午前中でも面会希望者が多いらしく、

牛久の施設は都心から遠いために面会希望者が頻繁に来ることは難しいのではないかと話していました。

 

待合室には、面会や差し入れに関する様々な規定が書かれた紙が貼ってあります。

差し入れは、お菓子は不可で、すでに調理されているレトルト食品のようなものでなければならない、とか、日本語による内容表示のあるものでなければならないとか。

 

おそらく収容者の家族であろう方が、ボディソープや洗剤の差し入れをしていましたが、受付では物品に関するチェックが行われているのを見ました。

 

 

 

重いドアの先に

 

少し待つと、「5番の方どうぞ―」と呼ばれ、防火扉のような重たいドアで仕切られた部屋に通されました。

 

入室前にはメモ用具などを除き、すべての荷物をロッカーに預けます。

 

その部屋からさらに鉄でできた重たい扉を開け、面会室に通されました。

 

その雰囲気はまさにドラマなどでイメージする刑務所。

 

日々の生活では感じることのない独特な雰囲気に一種の息苦しさを感じながら、

今回お話してくださることになったEさんを待ちます。

 

『何を聞いていいんだろう。何を話したらいいんだろう。

私たちがこうして話を聞きに来るのは不快ではないだろうか。

会ったところで、所詮私は何もできない。』

 

そんなことをぐるぐると考えました。

 

ガチャ。

キーッという音とともに扉が開いて、Eさんが優しそうな笑みで現れました。

 

指一本触れられない分厚いガラス板越しに手を合わせ、挨拶をします。

 

「こんにちは~。今日は会ってくれてありがとうございます。」

 

そんな普通の挨拶。普通のやりとり。

だけど、なんか変。なんか違和感。

 

同じ空間にいるはずなのに、その一枚のガラスでしきられた先の世界は、私たちの世界とは完全に別世界。たった一枚のガラスが、無情にもそんなことを感じさせます。

 

お互いに簡単な自己紹介をし、彼が収容されるまでの経緯やここでの生活などを伺いました。

 

Eさんはタンザニア出身の30代男性。もともとはボーイスカウトで日本にやってきたそうで、もう15年くらい日本に住んでいたが、数年前にオーバーステイになってしまい、それからこちらの施設に収容されているという。彼には日本人の妻と子どもがいて、家族は神奈川県に住んでいるそうです。(このお話を聞く限り、彼は難民ではないようです。)

 

私たちは、彼にここでの生活はどうか、聞きました。

 

決まった時間にしか外出は許されず、自由に食事を取ることもできない、圧倒的に拘束された生活の中で、彼は何を感じ、何を思うのだろうと。

 

予想と反して、返ってきた答えに、不満は少しもありませんでした。

 

「食事は気にしない。世界には飢えて死んでしまう子もいるけど、私は食べられる。もちろん家族とは一緒に暮らしたいが、神様は自分の経験のためにここに入れたんだ。私は、心は自由だから心配することはない。」

 

彼は敬虔なクリスチャンで、毎日大半の時間を、聖書を読んで過ごすと言います。

 

『私は、心は自由。だから、心配なことはない。』

彼はこれを何度も繰り返していました。心が自由なら、自分を信じられると。

 

 

 

全てが現実。

 

 

彼と面会を終え、感じたこと。

 

私は、現実をあまりにも知らなすぎる。

 

そこに広がっていた現実はあまりにも複雑で、その現実に対して私はどう向き合うべきなのか、分かりませんでした。彼がオーバーステイになってしまったのは事実。

その背景にどういう理由があって、そうなってしまったのかは分からないけれど、収容されなければならない現実は確かにある。

だから、彼を助けるために叫ぶことが正当なのかわからない。

 

でも一方で、私たちを笑顔で受け入れ、話してくれる彼が目の前にいる。

これもまぎれもない現実。

そんな彼が、私たちと全く別の世界に生きなければならない理由は、私には分からない。

 

 

どうしたらいいんだろう。

 

 

目の前に広がる、矛盾にも近い現実は、私には複雑すぎました。

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(文/ひなた)

”針と糸”で被災地から希望を紡ぐ〜大槌復興刺し子プロジェクト〜

岩手県大槌町

震災で大きな被害を受けたこの町から、

丹精込めた刺し子の商品で“あったかい“想いを届けているお母さんたちがいます。

 

大槌復興刺し子プロジェクト

大槌町の避難所からスタートしたこちらのプロジェクト。

 

避難所では、男性に瓦礫の撤去などの仕事があったそうですが、

女性の方(お母さんたち)には家事の場はなく、仕事はあまりないなど、

活躍のできる場が少なかったとのこと。

 

そこで、

限られたスペースの中でも「針、糸、布」があればできることとして、

始まったのがこちらの大槌復興刺し子プロジェクトです。

「刺し子」という技術はもともと布を強くするための技術だったといわれています。

 

擦れて穴が開いた洋服を縫い合わせたり、寒さをしのぐために布を重ねて縫い合わせたり。

 

そんな、昔から自然とやっていた作業で使われていたのが“刺し子”の技術でした。

こうした技術は日本各地に残っているそうで、何も大槌町に特別に残っていたものではなかったそう。

それを震災のあの時、お母さんたちにできること、

いや、お母さんたちにしかできないこととして活かしたのです。

 

昔からあった技術だとはいうものの、特別な技術ではなかったがゆえに、

当初、ボランティアの刺し子さん(布を縫う人のこと)でも、その技術を教えられる人は少なかったそうです。

 

それでもひと針ひと針作業をしていくことで、刺し子さんたちの輪は広がり、

一時期100名もの刺し子さんで作業されていたとのことです。

 

今回、私たちがお話を伺った運営スタッフの佐々木さんは、震災前までは刺し子をしたことがなかったといいます。

 

でも、「一歩踏み出してみよう」そんな気持ちから刺し子作業を始められ、

今では刺し子さんたちに作業をお願いするスタッフとしてプロジェクトを支えていらっしゃいます。

(生地の裏側。ひと針ひと針丁寧に縫われています)

 

今回お邪魔させていただいたのはこちらの作業所。

 

 

残念ながら、取材当日は、避難勧告が出るくらいの大雨で、こちらでは作業をされていませんでした。

普段はこのように、和気あいあいと作業をされているそうです。

 

 

(残念です汗)

現在は、だいたい20名くらいの刺し子さんたちが集まり、

お母さん世代が多いものの、20代から最高齢では90歳のおばあちゃんも作業をされているみたいです。

 

刺し子の皆さんは、空き時間にひと針ひと針丁寧に作業したり、

こちらの作業所に集まって力を合わせながら縫い合わせたり。

 

震災当時は簡単なものから作業されていたそうですが、

今では伝統柄を生かした製品にもより力を入れ、大槌町の新たな産業にすることを目指されているそうです。

 

 

「刺し子をしているときは没頭して時間を忘れちゃう」

「ここに集まれることで作業が外に出るきっかけになっている」

そんな声も多く聞くことができるそうで、刺し子の作業をすることが皆さんの楽しみや繋がりの場となっていることをひしひしと感じました。

 

 

佐々木さんは何度も、

「おばあちゃんたちと話せる場になって私も嬉しい」

とおっしゃっていました。

 

『皆さんが家族のようで、そんな温かい繋がりの下これらの商品が生みだされるんだなぁ』と、そんなことを感じました。

より一層ひとつひとつの商品から感じられる“あったかさ”が分かったような気がしました。

 

 

 

震災当時、お母さんたちの活躍の場としてスタートしたこのプロジェエクトですが、

7年たった今では地域の新たな産業になろうと形を変えています。

 

7年という歳月。

 

ずっと紡いできた温かい想いとつながりが、地域の新たな希望に変わろうとしています。

 

こんな素敵な想い溢れる商品が、いろんな人に届くといいなぁ。

 

(文/ひなた)

 

 

大槌復興刺し子プロジェクト

HPはこちら!!

https://sashiko.jp/

 

 

 

 

この度は取材をさせていただきありがとうございました!!!

東北でヒッチハイク!!車の中で僕が聞いたあの日のコト。

 

お久しぶりです!

 

広大です!

 

2018年、3月。

 

僕は今、取材活動で東北は岩手県に来ています。

 

 

 

皆さん、覚えていますでしょうか?

 

 

15,000を越える数の命を奪った東日本大震災

 

あの日から7年が経とうとしています。

 

津波による大きな被害を受けた岩手県沿岸部ですが、現在7年という月日をかけ、徐々に復興を遂げてきています。

 

「復興を、遂げてきています」

 

しかし、そんな簡単に言えることではありません。

 

そこには、復興を支えた外部からのボランティアの方々の努力や現地の方々の底力、

なにより、

人の「あったかい心」があったからこその復興だと思います。

 

 

今回の取材は、”7年前”ではなく”イマ”です。

 

困難を乗り越えた彼らの「あったかい心」を取材してきました。

 

 

3月8日。

夜行バスで盛岡についた僕らは、取材先である大槌町に行くために東へ100kmほど、移動する必要がありました。

 

移動手段として、僕らが選んだのは…    ヒッチハイク!!

ヒッチハイクを選んだ理由はこんなところです。

 

➀ 単純に交通費をかけなくてすむから

➁ 乗せてくれた人の「あったかい心」に触れられるから

➂ 3.11のときの様子を聞けるかもしれないと思ったから

 

などなど、今回の取材にうってつけの交通手段な気がしたからです!

あとは個人的に、やってみたいという気持ちもありました。

 

盛岡は都会ですから、乗せていただける車を見つけるのにそこまで苦労はしませんでした。

すんなりと乗せていただき、花巻まで連れて行ってもらいました。

 

ただ、

 

そこからが問題だった。

 

盛岡と比べ、花巻は圧倒的に交通量が少ない!

 

 

場所を変えながら、ヒッチハイクを続けますが、なかなか停車してくれる車はありませんでした。

 

そんな中、僕らのスケッチブックを見て、

 

申し訳なさそうに「ごめん!」という仕草をしてくれる運転手さんや、

首を横に振ってくれる運転手さん、

反対車線から「がんばれ!!」と声をかけてくれた運転手さんがいました。

 

あぁ、こんなところにもあったのか。あったかい心が。

 

 

 

しかし、時間は刻一刻とすぎ。

さすがにもう諦めて電車で移動しよう。

 

と、思ったその時でした。

 

「途中までだったら乗せてってあげるよ!」

 

そんな声が聞こえました。

 

いやぁ、岩手の方々。本当にあったかい。 胸がジーンとなりました。

 

乗せてくださったのは、岩手県在住の滝田さん。

消防士さんだそう!!

 

めちゃくちゃ親切で優しい方で、

 

なんと、途中ラーメン屋さんで餃子をおごってもらっちゃいました!!

それも、20個も。笑

 

本当にありがたいです。

移動中、3.11の当時の話をすこし聞かせていただきました。

 

 

3.11

2011年3月11日、滝田さんは地元である花巻を離れ盛岡まで買い物に行っていたそうです。

地震が起き、混乱の中、車で数時間待機していたそう。

余震も続いていたそうですが、幸いにも盛岡は内陸のため津波の被害にはあわず、

花巻へ向かって帰宅しようとしたんですが、

 

帰路は、停電。

国道4号線は、真っ暗。

 

そんな中、花巻へ戻り家族の安否を確認したそうです。

 

実際にあの時、あの場所にいた方の口からリアルな話を聞いた感想は、

 

怖い。

 

というのが、正直1番でした。

 

 

最後に 「ありがとうございました!」

 

 

結局、電車で移動することにした僕らのために滝田さんは花巻駅まで送ってくださいました。

 

本当にありがとうございました!!!

 

 

そんなこんなで、

 

ヒッチハイクをやってみて感じたことは、ズバリ!

 

出会いの可能性

 

です!!

 

たった、2時間程度の関係でしたが、かけがえのない出会いの数々。

 

これはヒッチハイクでしか経験できないものだと思います。

 

皆さんもやってみてはどうでしょう??

 

貴重な出会いほど一期一会ですから。

 

 

(文/広大)

7年の月日を経て、私たちが伝えたいもの。#東日本大震災復興取材始まります。

東日本大震災から7年、私たちはどれだけのことを忘れてしまったのだろう?】

今回、3月9日〜3月11日に「岩手県大槌町」にメンバーと取材に行きます。

 

テーマは「人のあったかいに会いに行く」です。

 

メンバーのひなたちゃんがパンフレットを作ってくれました!!

めっちゃ嬉しい^^

 

このパンフレット自体がめちゃくちゃあったかい。

ひなたちゃんありがとう!!

 

 

冒頭でも書きましたが、東日本大震災から7年が経とうとしています。

 

 

月日が経つにつれて、だんだんと忘れて行ってしまっている現状。

 

大手メディアは3月11日にここぞとばかりに放送します。

 

でも、それ以外の日は流しません。むしろ、流せないわけですが。

 

(ここに経済が絡んで来る。企業体質、業界体質が絡んできます)

 

今、被災地はどうなっているのか?

 

復興はどれぐらい進んでいるのか?

 

今回の取材先を紹介させていただきます。

 

 

1、ファミリーショップやはた

 

 

八幡さんが経営するお店です。

 

震災当時、お店自体も被害を受け、再び営業をすることができないほどになっていたお店が、

 

今は現地の人たちを支える存在となっています。

 

また、震災直前、訪れるボランティアの方々を無償で宿泊施設を貸し出し、

 

食事も提供したというファミリーショップやはた。

こんなに温かい人に今回出会えることに感謝です。

 

当時の様子の動画です。

 

 

ぜひみて欲しいです。

 

本当にあったかい。

 

 

2、大槌復興刺し子プロジェクト

 

伝統技術「刺し子」でお母さん同士をつなぎ、

 

 

コミュニティーを形成し、支え合う母体となっているプロジェクトです。

 

大槌からひと針ひと針、想いを込めて。

お母さんたちが生きがいを見つけ、元気に輝けば、家が明るくなり、地域が変わる。

地域を元気にする鍵を握っているのはお母さんたち。大槌町のお母さんたちはとても元気。

大槌刺し子では今日も笑い声が響きます。

せわしなくて、豪快で、時におせっかいで、そしてとっても温かい。

そんなお母さんの愛情がたっぷりこもった商品をお届けします。

(引用元:大槌復興刺し子プロジェクト)

 

7年経ったいまも、お互いに支え合っている人たちの温かさに会いに行きます。

 

HPはこちら。

 

https://sashiko.jp/

 

 

 

3、奇跡の一本松

 

陸前高田市

 

 

震災で津波が来る前は、なんとここに350年にわたって植林されてきた約7万本の松の木が茂っていました。

 

 

これがたった一瞬で、この一本を残して消えてしまった。

 

被害を全く想像できません。

 

 

現地ではこの一本松にまつわるエピソード、ドラマを追うことができたらと思います。

 

 

最後に

 

15,894人

 

これは2016年2月時点で、大震災で亡くなった方の数です。

数だけ見るとどうして実感できないのですが、

 

この亡くなった人たちの全てに、

家族がいて、

友達がいて・・・

そう考えるとあまりにも虚しすぎますし、悲しい。

 

こんなことがあっていいのか。

一瞬で命を奪われ、家族を奪われ、人生を奪われる。

私たちが「普通」に暮らしているという概念自体が、あまりにも虚構に過ぎないのかもしれない。

 

いつ、こんな悲しいことが起こるかわからない。

 

私たちは少し、何も考えずに生きすぎてはいないだろうか。

 

毎日を、

 

明日を、

 

いつも訪れるものだと勘違いしていないだろうか。

 

 

今回の取材は凄惨さを伝えるだけでなく、

 

むしろ、

 

私たちPass on は震災から立ち上がる中で、人びとが紡いできた、

 

希望とか、

可能性とか、

そういう温かさ、輝きを記憶から無くさないために、

次の世代に紡ぐために取材に行きます。

 

 

現地からも発信しますので、ぜひ記事を連続で読んでいただきたいです。

 

 

(文/だぐち)

正義ってなんだろう?難民問題から“日本”の在り方を探る

Pass onが昨年から継続して行っている日本在住難民取材。

今回この取材の一環として、茨城県牛久市にある東日本入国管理センターに行ってきました。

 

こちらの記事ではまず初めに、日本の外国人受け入れに関する問題について少しだけ考えてみようと思います。

 

東日本入国管理センターとは?

 

東日本入国管理センターとは、法務省管轄の国家施設であり、

日本に来た外国人のうち、何らかの理由で日本での滞在許可が下りない人々を一時的に収容する施設です。

 

“収容”と聞いて皆さんがどのようなイメージを持たれるかは分かりませんが、この施設における収容とは一時的な“保護”のようなものではなく、刑務所のような自由が拘束された生活であることを先にお伝えしておきます。

 

【関連記事】

(収容施設での生活を知りたい方はこちらも合わせてどうぞ↓)http://themoment.bambina.jp/2017/11/27/tokyoimmgration-coverage2/

 

 

 

外国人の方がこの施設に収容される条件は、

主に不法入国をしようとした場合、オーバーステイをした場合に分けられます。

 

この文面を読むかぎり、不法入国やオーバーステイをしたのなら、収容されるのは当然のことだろうと思われるかもしれません。ですがそこには、一概にそうとは言い切れない、日本政府の外国人受け入れに対する様々な問題が存在しているのです。

 

 

外国人受け入れの問題って?

 

例えば、こんなことを聞きました。

意図的ではなくオーバーステイを誤ってしてしまった場合。

 

『滞在期限が近づいていたため、更新しようと手続きを試みたが、

日本語書類が多くて分らず、気がついたら滞在期限が過ぎてしまっていた…。』

 

法務省のホームページを見る限り、英語での案内もあるようですが、

日本語に不慣れな外国人にとってその情報にさえたどり着くのが難しいといった場合もあるようです。

 

 

 

他にも例えば、母国の政府の迫害から逃れるために命からがら日本に逃れてきた場合。

母国政府は国民を迫害しているわけですから、

逃げようとした人々が政府発行のパスポート、または身分証明になる国際書類を手に入れるのはかなり難しいでしょう。

そのため、難民の方の中には偽造パスポートを使って日本に逃れてくる方がいます。

こうした人々は、日本政府側から見たら不法入国者です。

政府は不法入国者を簡単に日本に受け入れるわけにはいきませんから、施設に収容します。

 

また、難民の方の中には、とりあえず発行できた観光VISAで入国し、

その滞在期間に難民申請を行う方も少なくありません。

 

上記のように、様々な背景があり、問題や課題が山積しているのが現状です。

 

また、以前の連載でもお伝えしている通り、日本の難民認定基準はかなり厳しいものです。

 

申請が通るまでに何年もかかることは珍しくなく、申請期間中にVISAの期限が切れ、

結果的にオーバーステイになってしまうことがあるのです。

 

 

いったい何が正義なのか?

 

さてさて、突然ですが、

 

あなたは、今までに上げた例に当てはまる方々を

『はい、あなたは不法入国者/不法滞在者です。身分の保証が取れるまで自由を拘束します』

と面と向かって言えますか。

 

確かに彼らは違法に日本に滞在しています。

法的に判断すれば収容されて当然です。

日本の安全を守るために法務省不法入国者不法滞在者を取り締まるのはあたりまえの仕事です。

それ自体に問題があるわけではありません。

 

しかし、誰かに害を及ぼそうと意図して不法滞在になったわけではないのに、厳しく自由を拘束し、収容することはできるのでしょうか。

 

私は、『はい、仕方がありません。』と言い切ることはできません。

でも一方で、不法入国者不法滞在者に対する適切な対応は必要だと思います。

 

正義って何なのだろう。

 

皆さんはこの記事を読んで何を考えますか…?

 

つづく・・・

 

【関連記事】

(収容施設での生活を知りたい方はこちらも合わせてどうぞ↓)

http://themoment.bambina.jp/2017/11/23/tokyoimmgration-coverage/

 

(文/ひなた)

 

 

 

『今、知っておくべき偉人。理不尽な税から人々を救った、宮古島の英雄』

■『今、知っておくべき偉人。理不尽な税から人々を救った、宮古島の英雄』


皆さんお久しぶりです。

ひなたです!!

 

中村十作(なかむらじゅうさく)

突然ですが、皆さんこの方の名前を聞いたことがありますか?

 

はい…ないですよね(笑)

 

簡潔に言いますと、

新潟県出身の偉人で、明治時代に沖縄県宮古島における人頭税を廃止に導いた人です。

 

彼が生きた時代は、今までの幕府による統治が終わり、明治維新がおこり、自由や人権が叫ばれ始めた時期でした。

 

今回は普段の取材シリーズとは少しテーマを変え、この偉人についてお伝えしようと思います。

 

 

でもその前に、なぜ私が今回この取材をするに至ったのか。

その経緯を少しだけお話します。

 

 

中村十作さんは新潟県の稲増村(現・上越市板倉区稲増)で生まれ育った方です。

この稲増村、実は私の祖父母の家があるところ。

そこには、地域の偉人の功績を称えようと“中村十作記念館”なるものがあります。

 

 

よく小学校の地域学習とかで訪れるような、いわゆる地域の偉人の資料館ですね。

 

なんと、そこの館長をボランティアでずっとやっているのが私の祖父!

 

いやいや、今まで当たり前すぎて何も興味とか関心とか持っていなかったけど、

よく考えたらおじいちゃんすごいことやってるじゃん!!

 

ふと、そう思い、このお正月に帰省したタイミングでちゃんとお話を聞いてきました。

 

それではここからが本題、中村十作さんについてです。

冒頭にもありましたが、彼は宮古島で200年以上続いていた悪税、

 

人頭税』(じんとうぜい/にんとうぜい)を廃止に導いた人です。

 

 

ではそもそも、人頭税とはどんなものなのでしょうか?

 

人頭税とは
人頭税とは、その名の通り、人の頭数によってかけられた税です。

 

所得や納税力には関係なく、役人や士族を除く15歳から50歳の男女全員にかけられました。

※これは人頭税石といい、この高さを超えた者は全員税をかけられたそうです。

 

当時は貨幣ではなく、男は粟、女は宮古島上布(織物)を納めることになっていました。

 

 

これが悪税と呼ばれた理由は、その理不尽な税の使われ方と税率の高さにあります。

 

この税は、国税とは全く別に島の役人らに納められるためだけに作られました。

 

当時は厳しい階級社会だったため、

納められた粟や絹はもっぱら役人や士族などの支配階級のために使われ、

納める側の農民には利益がかえってくることはありませんでした。

 

その税の負担は、最高で収穫高の約65%にも上っていました。

どうしてこんなにも高くなったのかというと、それはこの税の仕組みにあります。

 

先ほども述べた通り、税は支配階級に納められ、彼らはその税をもって生活をしています。

 

当時の役人らは、家事の全てを任せる『名子』(なご)という奴隷を養っていました。

 

名子は人頭税の対象ではありませんでしたが、その代わりに役人の生活を支え、仕えていました。

役人は自分に仕える者がいなくなったら困りますから、名子を養うためにも税率を上げました。

ひとりの役人に対して10人の名子がいることもめずらしくなかったそうです。

 

役人が名子を増やせば増やすほど、税率はあがっていきました。

 

役人の生活費であるこの税は、決められた量は必ず納められなければなりません。

 

ゆえに、納められない人がいるとその分の税の負担は他の人に回ります

 

ある村に住むAさんが10納めなければならない税を、病気のため農作を行えず、

5しか納められなかった場合、Aさんの未納分は同じ村に住むBさんにかけられました。

 

この負のループが繰り返された結果、収穫高の約65%という税率の高さになってしまったのです。

 

 

農民たちの苦しみ
農民たちはこの税に大変苦しみました。

納税力に関係なく頭数によって税を課されるため、

一家が所有している農地から収穫できる農作物は限られているにもかかわらず、

その家の課税対象の人はみんな、ひとつの土地に対しての収穫量65%を納めなければならない

といった事態が起こりました。

 

物理的に収めることが不可能であるのにもかかわらず、

納められない人は集団で罰を受けたり、牢屋に入れられ拷問を受けたりしました。

 

こうした苦しみに耐えられなくなった農民は、

頭数を減らすために自殺をしたり、やむを得ず子どもを捨てる『まびき』を行ったりしたと伝えられています。

 

目隠しをして子どもを崖に連れていき、一緒に海に飛び込む、または、突き落したそうです。

 

また、当時、身体障害者は税率が低かったため、

自ら手足を切り落として税の負担を軽くしようとした人も少なくなかったと言われています。

 

 

宮古島の現人神
当時、真珠養殖の研究をしていた中村十作は、その研究のために宮古島を訪れました。

すると、そこで目にしたのは悪税に苦しむ宮古島の人々。

 

時に、自分の子どもをまびいたり、自殺をしたりしなければならないほど

苦しめられる農民の状況に深く憤りを感じた十作は、島に来てわずか1か月後、

島の農業技師である人物とともに人頭税廃止運動の先頭に立ちました。

 

始めは沖縄県に廃止を求めたものの、県の役人と島の支配階級との結びつきの強さから事態は好転しませんでした。

 

そこで活動を始めてから約1年後、同郷で新聞記者の増田儀一の手を借り人頭税の非社会性を訴え、

彼や弟の十一郎と共に帝国議会人頭税廃止の請願書を提出。

 

彼の訴えは財政界を動かし、請願からたった2年後、人頭税の廃止が決定されました。

 

その後、宮古島において完全にその税が廃止されるまでには8年かかりましたが、

彼の強い意志と行動によって島の人々は救われたのでした。

 

この功績はいまも称えられ、宮古島では神として祀られています。

 

 

宮古島で神として祀られている場所

 

 

取材した感想
こんなにも強い意志と行動で、不条理に苦しむ宮古島の人々を救った人物が故郷にいたと思うと、なんとも誇らしいです。

 

また、宮古島新潟県板倉町の交流は現在も続いており、

歴史の学習で両地域の中学生による交流ホームステイが行われていたり、

町のイベントに合わせて両地域の代表が訪問し合ったりと、友好関係が続いているそうです。

 

たったひとりの行動によって、その時代の人々が救われただけではなく、

後世にも地域同士のつながりと平和を残している。

 

これってとても素敵ですよね。

 

 

『自分が見た不条理に目を背けず、本気で立ち向かい、未来に平和を残す。』

 

そんな人物になれたらいいなぁ。

 

(文/ひなた)

朝から働く子どもたちーカンボジアー

 

 

みなさんこんにちは。

初めまして。中村ひなたです。

 

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この度、発展途上国を訪れてみたいと思い、5日間カンボジアに行ってきました。

 

初めての途上国で一番感じてきたかったこと、それは現地の人のリアルな生活でした。

 

途上国の現状ってどんなだろう、それを感じて、知ってこられたらいいな、

 

そんな風に思ってこの旅にのぞみました。

 

でも結論、期待していたものは全然感じてこられなかった。全くわからなかった。

 

 

「リアルな生活を感じる」、「知る」

これってきっと自分も彼らも同じ位置に立てないとだめだと思う。

 

でも、自分たちが彼らの気持ちになるとか、そういうことだけじゃなくて。

 

きっと、同じ位置に立つことって、私たちだけが当事者の立場に立つことだけじゃなくて、

 

彼らにも私たちを分かってもらうことができてこそだと思う。

 

相手にも自分のことを知ってもらい、理解してもらわないと、私たちはいつまで経っても彼らと同じ場所に立てない。立たせてくれない。

 

自分たちだけの一方的な想いだけじゃなく、現地の人たちにも、理解をしてもらって初めて、一緒に歩む、面と向かって向き合うことができる。

 

結局、私たちだけが想いを持ってもーーー。

 

 

「あなたはあなた、私は私。」

 

 

今回、私が現地で感じたのは圧倒的な部外者感。

 

彼らから見たら自分はただ観光に来ている裕福な日本人で、なんだかこう、別の世界で生きているような気がした。

 

「あなたはあなた、私は私。」

 

そんな感じ。

 

 

今回の旅で現地のリアルな生活は感じることはできなかったけれど、

そこで思った様々なことをお伝えできたらなと思います。

 

 

―朝から働く子供たち in カンボジア

 

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一日目の早朝、世界遺産であるアンコールワットの朝日鑑賞に向かった。

眠いなーと思いながら世界遺産から見る日の出にわくわくしながら車で20分。

チケットを買って、観光客の列に一体となりながら遺跡に向かった。

日本の上智大学の支援で建設しているという石造りの立派な橋を横目に、お堀に浮かぶ仮設の橋を渡り、少しするとアンコールワットの三角帽子がみえてきた。

 

昇り始めた赤いオレンジの朝日を背景にたたえ、荘厳に構える大昔の遺跡。

 

でも、実際にアンコールワットの目の前に立ってみて私の目を最初に奪ったのは、

 

無気力に小さなかごを首から提げてお土産を売る子どもたちだった。

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最初は祝日だからお手伝いかなーなんて思っていたけど、違う。

 

それは彼らの立派な仕事だった。

 

写真をとるのに夢中の観光客に近づいて行っては、

「マグネット ワンダラー(1ドル) ワンダラー(1ドル)」

と繰り返す。少し目を合わせてくれた客には商品を見せながらしつこく交渉する。

おそらく小さい子で7歳ぐらいだろうか。

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そんな光景が当たり前にあることに驚いた。

 

でも何だろう。

 

そこで私が感じたのは「かわいそう」とか「助けてあげたい」とかじゃなく、

これがここでの「当たり前」という感覚。

その感覚が衝撃的だった。

 

私も例外ではなく彼らに話しかけられる。

日本人観光客も多いため、日本語で

「5枚 いちダラー(1ドル)、 5枚 いちダラー(1ドル)」

と、言い慣れたように寄ってくる。

 

「あぁ、私はこの子たちにとって、日本からやってくる違う世界の人々で、商売の相手でしかないんだな」

 

むしろ、それ以外の何ものでもないということを感じた。

 

それがなんだかもどかしい。

 

こう、胸に小さな、冷たい悲しさのような、さみしさのような……そんなものを感じた。

 

でも正直、私はその子たちにどう接していいか分からなかった。

 

ほかの観光客と同じように少し冷たい目線で首を横に振り、その場、その子をやり過ごす。

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朝日が昇りはじめ、楽しそうに写真を撮る観光客を見ながら、

「あぁ、今の自分ってそれしかできないんだ…」

そんなことを考えた。

 

(文/ひなた)