7年後の被災地、大槌町へ。おんなじ空の下だけど、行かなければわからなかったこと。

3月11日、岩手県大槌町で「大槌町NPO・ボランティア団体連絡協議会が主催している

 

祈念式典「3.11 集い〜灯火〜」に参加させていただきました。

 

これは、大槌町にあるショッピングセンター「シーサイドタウン マスト」の駐車場で毎年行われているもので、ペットボトルで作った灯篭を「3.11」の文字の形で敷きつめ、そこに火を灯し、震災で亡くなられた方々の鎮魂と復興への祈りを捧げるというイベントです。

 

僕たちはスタッフとして、設営を手伝わせていただきました!

50人くらいのボランティアの方々がいました。

 

現地の方がほとんどでしたが、僕らと同じ大学生で、愛知県から来ている人や、修学旅行として近畿の方から高校生も来ていました!

 

まず、

文字を作るためのペットボトルを組み立てます。この作業は、1人ではできなかったので現地の方と協力してやりました!!次に、穴の空いたペットボトルにロウソクを詰めていきます。

 

 

ひとつひとつ、ロウソクを詰めていると、

 

「ヴゥーーーーーン」と、

 

聞き慣れない大きなサイレンの音が耳に飛び込んできました。

 

 

なんだなんだ、と反射的にスマホの画面を見て気づきました。

 

2018年 3月11日 14時46分

 

 

2011年の3月11日14時46分に震災が起きてから、この瞬間で、ちょうど7年です。

 

みんな、作業をやめて、立ち上がります。

 

 

 

 

 

黙祷

 

 

 

海の方を向き、祈りを捧げました。

時間が止まったような、そんな感覚に陥り、あらためて自分が被災地の最前線にいるということを実感しました。

 

 

作業を再開します。

心なしか、みなさん晴れ晴れとした顔で準備を続けていました。ロウソクを詰めたペットボトルには、現地のみなさんが描いた絵や復興への想いを込めた文章が記されています。

 

 

 

ロウソクに、火を灯します。

 

それぞれの想いをのせて、火を灯します。

 

 

あの日、大切な人を失った人もきっとこの中にいて、

 

あの日、被災地のことなんて他人事にように感じていた小学生だった僕がいて、

でも、いま同じ場所で同じ物を一緒に作って、同じタイミングで祈っている。

これが、被災地を想うってことなのかな。

 

 

そんなことを思いました。

 

 

集合写真を撮って、セレモニーは終わりました。

 

 

最後にイベントを取り仕切っていた渡辺賢也さんにご挨拶に伺うと、

「しっかり現地の人の声は聞けましたか。良かったです。ぜひ、伝えてください。」

と、笑顔で話してくださいました。

 

 

確かに、ここが復興の最前線なんだ。

 

この場所に行って実際に震災を体験した人の声を聞く。

 

そのことの意味を強く感じました。

 

「僕たちは震災の悲惨さではなくて、復興へ向かう人のやさしい心を拾い集めて、伝えていかなくてはならないんだ」

 

この場所は、やさしい心で溢れている。

 

しっかりと復興へ向かっている、「強い希望と人の力」がある。

 

だから僕は確信しました。

 

この街は、いい街だ。

 

またこの街の良さを伝えるために訪れよう。

 

8年目も、きっと。

(文/広大)

「ひたすらまっすぐやるのさ。」震災後、約2500人に食事と宿を無料で提供してきた大槌の“お母さん”とは

八幡のお母さん

私たちがこの取材企画で大変お世話になった八幡幸子(やはた ゆきこ)さん。

 

取材で大槌町に滞在する私たちのために、朝昼晩の3食の食事と、ご自宅の部屋を宿として無料で提供してくださいました。

 

八幡さんは大槌町「ファミリーショップやはた」という商店を経営されています。
地元の人々が集う、憩いの商店です。

震災後には、お店を経営する傍ら、大槌町に来るボランティアの方々のために、自宅に無償で泊め、温かいごはんと休める居場所を提供してきました。

 

2011年3月11日、東日本大震災による津波が襲ってから必死でお店を修築し、なんと3ヶ月の早さでお店を再び開店。

 

その後、多くの人が泊まれるように1000万円の借金をして自宅の改装。7年間で受け入れてきた人々はのべ2500人以上にもなるそうです。借金を背負ってまで、人のために動く行動力、そして、その心の広さと大きさに驚かされるばかりでした。

(壁には今まで受け入れた人たちからの感謝の手紙と写真がいっぱい)

 

そんな八幡さん、震災当時、自身も津波の被害を受けています。
お店である1階部分は浸水。自宅である2階に逃げ込み、家が流されてしまった近所の人や、車の上に避難していた方を助け、救助を待ったそうです。

 

その当時の想いを八幡さんは私たちに語ってくれました。

 

自分は何をできるのか。それをひたすら問うて1日1日できることをまっすぐやってきただけだった。お店にあった袋入りの商品はまだ食べられるからみんなに配ろうとか、家に布団が沢山あったからそれを避難所に届けようとか。もうひたすらできることをやっていたんだ」

 

そうして、ひたすら自分にできることをやり続け、
探し続け、
その目はボランティアの人たちにもーーー。

 

県外から来てくれるボランティアの人たちに、
泥まみれで作業をしてくれるボランティアの人たちに自分は何ができるのか。

 

ただその想いから彼らを無償で受け入れることに決めたそうです。

 

「ボランティアに来てくれる人たちが本当にありがたかったの。ボランティアの人たちの力はすんごくて、この人たちが色々やってくれたから、復興してこれた。本当にありがたかったんだよ~。だからみんなに感謝なの。

 

八幡さんはここに来た人全員に想いを馳せるように、そうおっしゃっていました。

 

自分が好きだからやっているの。何も、人のために何かしようじゃないの。そうすると、自分がここまでやったのに…って思ってしまうでしょ。
だから、自分にできることは何かを考えてひたすらまっすぐやるのさ。」

 

そう語る姿は優しく温かくて、、、。

八幡さんのお家に滞在して、Pass onメンバーぞれぞれに学びがありました。
八幡さんの心に触れ、メンバーは何を思ったのか。

私たちは何を見たのか。

つづく

(文/広大・ひなた)

仙台市を訪れて考えた「震災を教訓として残す」ということ

岩手県大槌町を舞台に行ってきた東北取材ですが、その後、私はひとり宮城県仙台市に舞台を移し、大槌町とはまた違った震災の記憶、復興の歩みを目にしてきました。

 

仙台市の中心部はほとんどもう震災があったことなど感じさせません。
高いビルに賑わう商店街。
初めて訪れた仙台はびっくりするぐらい都会でした笑

 

しかし、市街からたった10キロほど行くと、
あの日、津波に飲み込まれた沿岸部があります。

 

私はその記憶がどうやって残されているのか、仙台市がどのようにして復興を遂げてきたのかを確かめるために、

「せんだい3.11メモリアル交流館」と、震災遺構として残されている「荒浜小学校」を訪れました。

 

そこから私が考えた、「震災を教訓として残す」とはどういうことかについて、お伝えしたいと思います。

せんだい3.11メモリアル交流館

こちらは2016年2月、時を経ても災害から命を守れるように、あの日の大震災の記憶と経験を学び、未来につなぐ場としてオープンされた施設です。

メモリアル交流館という名前には、震災を経験した人もそうでない人も、様々な人が関わり続け、それぞれの想いを分かち合う場としてしての意味がこめられているそうです。

 

1階には大きな立体図形があり、あの日被害を受けた地域と震災遺構として残っている施設がカードと共に紹介され、壁のスクリーンには震災の記録が映し出されていました。

 

2階に上ると、常設展示室があり、震災被害から復興への歩みが時の流れを追うように展示されています。

災害の恐ろしさと残酷さ伝え残す写真やコラムと共に、当時の救助の様子や復興への支援の輪などが色わけをされて展示されています。

 

これらの展示は、震災の痛ましい記憶を教訓として私にしっかりと伝えてくれました。また、それと共に、着実に震災を乗り越えてきた過去があるということも私に教えてくれました。

 

展示室の入り口の壁には沿岸地域の大きな地図がありました。
そこにはこの沿岸地域の思い出がたくさん詰め込まれた絵が描かれています。

地図の上から張ってある付箋は、ここを訪れた人がその地の思い出を書き留め、張られたものだと言います。一時は付箋でいっぱいになってしまい、地図が見えなくなるくらいだったそうです。

 

こちらを案内してくださったガイドさんは、この地図を見ながら穏やかな表情で話してくださいました。

 

ピンクの吹き出しで囲まれている所はなくなってしまったものであったり、今はまだ再建中の施設であったりするということ。この道路は今、かさ上げ工事中で工事が終われば沿岸部にサイクリングロードが再びできること。

 

この地図には、津波で流されてしまった施設が確かに刻まれていました。
でもその一方で、この地図にはこの地域の記憶や思い出が、しっかりと残されていました。
なくなったもの、奪われたものを刻むのではなくて、心にある大切な思い出を刻むものとしてこの地図がある、そんな風に感じました。

 

震災遺構 荒浜小学校

場所を移し、震災遺構として残されている仙台市立荒浜小学校を訪れました。

この荒浜小学校はあの大津波が襲った時、320名が避難した小学校です。
津波は2階まで押し寄せ、児童や職員らは3階以上に逃げ、救助を待ったと言います。
(※こちらの建物に避難した方々は全員助かっています。)

その建物が、震災の教訓を伝え残すものとして現在も残っています。

周りの建物は全て流され、広い台地が広がる中で、荒浜小学校は私たちに何かを伝えるかのようにして立っていました。

 

1階と2階には津波が押し寄せた爪痕が痛々しく残っています。

 

机が並び、児童が楽しく給食を食べたであろう教室は、がらんどうで、

あらゆるものが押し寄せ、破壊していった津波の脅威が私たちに言葉を失わせます。

 

2階に置かれていた棚は、津波で浸水した高さでくっきりと線が入っています。

 

「本当にここまで、ここまで津波が来たんだ…」

 

心には悲しいとかそんな感情も湧いてきませんでした。
ただ、茫然と津波の脅威を感じるだけ…

 

4階には、荒浜小学校における地震発生時から避難、救助の様子とともに、荒浜地区の歴史や思い出などがわかる様々な展示がされていました。

この4階を訪れて、私はこの小学校がここに残され続けている意味が分かりました。

 

大きな町のパノラマ。

ほとんど全てが流されてしまった町の模型が、教室の真ん中にありました。
ひとつひとつの旗にはその家に住んでいた人の名前や、そこで生きていた人々の証がしっかりと刻まれていました。

 

 

黒板や掲示板には数々の思い出のメッセージ。

 

人々はこの学校に集まり、地域の思い出や希望を紡ぎあってきたことを証明しています。

この地域で過ごした大切な日々が、この小学校にはいっぱい詰まっているのです。

 

この小学校は確かに震災の痛ましい記憶を後世に残すものでもある。

だけど、それ以上にこの小学校は、
建物や木々は全て流されてしまったかもしれないけど、
確かに存在していた荒浜地区の思い出や記憶を残す、大切な大切なふるさとであったのです。

震災を教訓として残すこと

この2件の施設を通して感じたのは、震災を後世に教訓として伝え残すこととは、ただ単にその被害や悲しみを伝えていくことだけなんじゃない。

 

震災を経験した地域の記憶、そこの場所にあった思い出、そこの場所で生きてい人たちの記憶。それらを忘れないで、その記憶とともに震災を語り継いでゆく。
このことこそが、大切なんだ。

 

震災で失われた多くの命を無駄にしないために、私たちは知り、学び、伝えていかなければならないと改めて思いました。

(文/ひなた)

あの日、小学生だったわたしが被災地で祈る。未来へ繋ぐ想い。

3.11という日

みなさんは、この日をどう過ごしましたか?
誰を思い出し、誰と話し、誰と笑い合いましたか?

私は初めて被災地で過ごす1日でした。
7年経って、ようやく私はこの地に足を踏み入れることができました。

正午ごろ、滞在先の大槌町の高台にある『希望の灯り』で行われた追悼式に参加させてもらいました。

ここからは町が一望できます。

 

あの日、この町の人々は、海が脅威と化し、すべてをさらっていく様子をここから見ていました。

 

今日、この町の人々はここから穏やかな海を眺め、亡くなられた方々やあの日の記憶に想いを馳せます。

 

そんな特別な地。

そこでこんな私が、こんな何も知らない私が、みなさんと一緒に祈り、想いを馳せていいのだろうか。

みなさんと時を過ごしていいのだろうか。

そんな気持ちが揺れ動きました。

 

正午ちょうど。
祈祷式が始まります。
町の音楽であるひょっこりひょうたん島が流れ、1分間手を合わせます。

苦しいこともあるだろさ
悲しいこともあるだろさ
だけど僕らはくじけない
泣くのはいやだ
笑っちゃお、すすめー
ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたんじーまー

 

スピーカーから流れる少し不器用な音が、深く心に響きます。

 

穏やかな静けさを感じて、あの日の記憶に想いを馳せる。

あの日から7年という歳月に、祈りを捧げる。

 

 

ふた粒の涙が、自然と頰をつたいました。

 

 

なんの涙だったのか、私にも分からない。
悲しいとか辛いとか、そういうのじゃない。

 

深い、想い。

 

3.11

7年経った今、この地にこられて本当によかった。
この地で祈ることができてよかった。

 

祈る者と祈られる者。

 

想いを馳せ、祈ることにどこの人だなんて、何年経ったかなんて関係ないんだ。

祈る想いですべての者が繋がっている。

 

「東京からわざわざありがとうね。」

 

優しくかけられたこの言葉は、それを証明してくれている。

 

この地で、この地の人と一緒に、3.11を過ごすことができてよかった。

祈りを捧げることができてよかった。

 

(文/ひなた)

7年後の被災地、大槌町へ。おんなじ空の下だけど、行かなければわからなかったこと。

3月11日、岩手県大槌町で「大槌町NPO・ボランティア団体連絡協議会が主催している

 

祈念式典「3.11 集い〜灯火〜」に参加させていただきました。

 

これは、大槌町にあるショッピングセンター「シーサイドタウン マスト」の駐車場で毎年行われているもので、ペットボトルで作った灯篭を「3.11」の文字の形で敷きつめ、そこに火を灯し、震災で亡くなられた方々の鎮魂と復興への祈りを捧げるというイベントです。

 

僕たちはスタッフとして、設営を手伝わせていただきました!

50人くらいのボランティアの方々がいました。

 

現地の方がほとんどでしたが、僕らと同じ大学生で、愛知県から来ている人や、修学旅行として近畿の方から高校生も来ていました!

 

まず、

文字を作るためのペットボトルを組み立てます。この作業は、1人ではできなかったので現地の方と協力してやりました!!次に、穴の空いたペットボトルにロウソクを詰めていきます。

 

 

ひとつひとつ、ロウソクを詰めていると、

 

「ヴゥーーーーーン」と、

 

聞き慣れない大きなサイレンの音が耳に飛び込んできました。

 

 

なんだなんだ、と反射的にスマホの画面を見て気づきました。

 

2018年 3月11日 14時46分

 

 

2011年の3月11日14時46分に震災が起きてから、この瞬間で、ちょうど7年です。

 

みんな、作業をやめて、立ち上がります。

 

 

 

 

 

黙祷

 

 

 

海の方を向き、祈りを捧げました。

時間が止まったような、そんな感覚に陥り、あらためて自分が被災地の最前線にいるということを実感しました。

 

 

作業を再開します。

心なしか、みなさん晴れ晴れとした顔で準備を続けていました。ロウソクを詰めたペットボトルには、現地のみなさんが描いた絵や復興への想いを込めた文章が記されています。

 

 

 

ロウソクに、火を灯します。

 

それぞれの想いをのせて、火を灯します。

 

 

あの日、大切な人を失った人もきっとこの中にいて、

 

あの日、被災地のことなんて他人事にように感じていた小学生だった僕がいて、

でも、いま同じ場所で同じ物を一緒に作って、同じタイミングで祈っている。

これが、被災地を想うってことなのかな。

 

 

そんなことを思いました。

 

 

集合写真を撮って、セレモニーは終わりました。

 

 

最後にイベントを取り仕切っていた渡辺賢也さんにご挨拶に伺うと、

「しっかり現地の人の声は聞けましたか。良かったです。ぜひ、伝えてください。」

と、笑顔で話してくださいました。

 

 

確かに、ここが復興の最前線なんだ。

 

この場所に行って実際に震災を体験した人の声を聞く。

 

そのことの意味を強く感じました。

 

「僕たちは震災の悲惨さではなくて、復興へ向かう人のやさしい心を拾い集めて、伝えていかなくてはならないんだ」

 

この場所は、やさしい心で溢れている。

 

しっかりと復興へ向かっている、「強い希望と人の力」がある。

 

だから僕は確信しました。

 

この街は、いい街だ。

 

またこの街の良さを伝えるために訪れよう。

 

8年目も、きっと。

(文/広大)

『だけど僕らはくじけない』7年前、津波が襲った町、「岩手県大槌町」で感じた魅力。

私たちが今回取材拠点として滞在している岩手県大槌町

 

震災から復興してきた大槌町の希望を伝えるのもそうだけど、

純粋に大槌町の魅力も伝えたい!

そう思って今日は町をめぐってきました!

 

山あり、海あり、島あり、動物あり!!

 

素敵なものがたくさんありました。

 

まず向かったのは山の方。

といっても海からそんなに遠くなくて、市街地から車で20分ほど行ったところに車を止め、そこから軽くお散歩です。とびっきりに澄んだ新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んで、山道を進みます。大小さまざまな角ばった石の上には、雪解け水がきらきらと流れています。

自然をいっぱいに感じながら道を進み、私たちのお目当てのものが見えてきました。

 

「浪板不動の滝」

 

「ごうごう」とうなる滝の音。

 

そびえる木たちの緑が私たちを包み込みます。

 

日本の自然。

私たちが大切にしなければならないもの、ここにありです!!

 

 

 

沿岸部をドライブして海の波の音と潮風を感じ、

 

最後に大槌町の名物、ひょっこりひょうたん島のモデルになった蓬莱島を訪れました。

 

西の空に沈む夕日と、3月のきりっと澄んだ空気の中に浮かぶひょうたん島。

 

周りにはカモメがのびのびと飛んでいて、

お恥ずかしながら、

「綺麗」という言葉しか浮かんできませんでした。

海は大きく穏やかに私たちを迎えてくれていました。

あの日、この海が人びとにとって脅威になったとは、とても想像できないくらいに。

 

このひょうたん島がこんなにも美しい理由。

 

それは、この島そのものの魅力だけではありません。

 

3日間大槌町にいて本当に感じたことですが、

みなさん、この島のことを誇りに思い、愛しているのです。

 

宿泊先でお世話になっているお母さんも、取材でお話を伺った方も、

 

「ひょうたん島さ有名だからねぇ」

「あっごさいっでぐればきれいだよ」

 

ってにこにこ笑顔でおっしゃるんです。

 

そういう気持ちが、きっとあの島をより輝かせているんでしょう。

 

そんな想いは子どもたちにも無意識にあるのかなと。

ひょうたん島の周りは、まだ車が近づけないほど工事が続いています。

 

でもその横の広場で、

寒い時間帯にも関わらず缶蹴りをして遊んでいる子どもたちがいました。

 

わざわざこの場所で。

 

町の人たちが自然にもつこの島への愛は、ひょうたん島を今日も輝かせています。

 

レンタカーに戻る道では、町のスピーカーから明日の追悼式に関するアナウンスが流れていました。

 

あの日、本当にこの海が襲ってきたんだ…

 

こだまするそのアナウンスは、

 

心に深く、

優しく、

しみ込んできました。

 

(文/ひなた)

 

p.s.ニホンカモシカと遭遇!!

目ががっつりあいました。もののけ姫のシシ神を思い出しました。

「奇跡」か「悲劇」か。一本松を取材して、僕が感じた間違いがないという矛盾の話。

こんにちは!

Pass onで行なっている、東日本大震災復興取材も今日で3日目ということで、

今日は大槌町から陸前高田まで移動して、「奇跡の一本松」と呼ばれている木を見に行きました。

 

 

2011年3月11日。

 

約7万本の松の木が生えていた林を襲った大津波はほとんど全ての木を飲み込み、流し去りました。

 

たった、一本だけを残して。

 

津波を耐え、

奇跡的に一本残った松の木を人々は「奇跡だ」と賛美し、

「奇跡の一本松」と名付けて復興のシンボルとしました。

 

 

その後、一本松は津波による海水の影響で枯死しましたが「震災の存在が風化しないように」という考えで、

たくさんの人の支援によって地盤を固めて、人工的に保護される工事が施されました。

 

 

一度死んだ一本松は、人間の技術のおかげで「復興を象徴するモニュメント」として生まれ変わったのです。

 

 

人々は観光地としての一本松を訪れます。

一本松の前で記念撮影をします。

 

 

 

実際に僕は今日、ピースサインをして写真を撮っている人をこの目で見ました。

 

 

 

正直、心が痛かった。

 

 

「奇跡の一本松駅」という駅があること、

「奇跡の一本松せんべえ」といったお土産が売られていること、

英語での案内が書かれていたことなど、

 

 

一本松が、観光地化していることがどうしても引っかかる。

 

一本松の周りの建物などは、2011年の当時のまま残っているものもある。

 

 

それすらも、「観光」の対象なのだろうか。

 

 

震災を風化させないためのモニュメントして、存在意義のある一本松。

 

震災の忌々しい記憶を呼び起こす装置として機能する一本松。

 

観光資源として、陸前高田の経済に貢献する一本松。

 

 

どれも、一本松の正しい姿であり、

矛盾しているようですが間違いはありません。

 

どれも間違っていないと思うんです。

 

皆さんは、

 

この一本松、必要だと思いますか?

 

僕の意見

 

約7万本の仲間たちを失い、たった一本残された彼は、「奇跡」なんかじゃない。

 

もう死んでいるのに、人間によって「奇跡」にされて、見世物になっている彼は、

 

「奇跡」ではなく「悲劇」ではないだろうか。

 

足元をアスファルトで固められ、

頭上には避雷針を、刺されて。

 

 

数十メートル横には、根っこだけの松の木。

 

 

 

「なんで、   なんで、   ぼくだけ。」

 

そんな声が聞こえてきそうだった。

 

植物に感情があるのかはわからないけれど、

 

僕は思った。

 

一本松が、可哀想だ。

 

復興途中にある景色の中でたたずむ、

綺麗に整備された地面に埋め込まれた松の木。

 

その不自然さが、心に引っかかる。

 

この気持ちはなんだろう。

(文/広大)